伊勢
伊勢は平安初期の女性歌人で、三十六歌仙のひとりである。伊勢の御、伊勢の御息所とも呼ばれる。情熱的な恋歌で知られ、古今和歌集など勅撰和歌集に176首がとられている。貞観14年(872)ごろの生まれのようだが、生年は未詳である。以下で伊勢の年齢を出す場合、貞観14年生まれとして計算している。
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の系統をひく、左大臣冬嗣の兄真夏を祖とする女性で、藤原継蔭の娘。
伊勢集に「いつれの御時にかありけんおほ宮す所(七条后)ときこえける御つほねにやまとにおや(継蔭)有ける人(伊勢)さふらひけり」とあるように、宇多帝の御息所七条后藤原温子に仕えた。伊勢の祖父家宗が中宮職の官人として文徳天皇の后藤原明子に多年に渡って使えていたことで、伊勢を幼い時から温子に仕えさせることが出来たのではないかとの説がある。
父継蔭は古今和歌集目録によれば文章生から大工頭、参河守を歴任し、「仁和元年八月十五日任伊勢守。二年正月七日叙從五位上。寛平三年正月任大和守」とあるように継蔭は仁和元年(885)に伊勢守、寛平三年(891)に大和守に任じられている。
先の引用箇所の記述では継蔭が大和守であるとのこと(「やまとにおや(継蔭)有ける」)であが、続きに「爲伊勢守之比號伊勢歟」とあり、継蔭が伊勢守在任中に女御になったので伊勢という女房名となったようだ。
温子の弟である藤原仲平に恋い慕われ、やがて文を取り交わす仲となる。これは伊勢集に「御息所の御せうと(仲平)年頃いひわたり給けれとしはさらにきかさりけるをいかゞ有ける」などとある。
その後仲平は大臣(西本願寺本の伊勢日記では大将)の婿となり(「時のおほひまうち君にむこにとられにけり」)、悲しみから父の任地大和に逃れたという。伊勢集ではここで最初の和歌があり、伊勢の実家を訪れた仲平が「人すます あれたる宿を きて見れは 今そ紅葉の 錦おりける」という歌に「なみたさへ 時雨にそひて 故郷は 紅葉の色も こさまさりけり」と返している。
大和に滞在中、温子から出仕するようにと勧められ、再び宮仕えに戻った。この間に仲平の兄時平に思いを寄せられた。また、仲平も再び言い寄って来る。これに伊勢は文は返すのみで、会おうともしなかったようだ。おそらく、最初の失恋が響いていたと思われる。
例えば時平の歌「ひたふるに 思なわひそ ふるさるゝ 人の心は それそよのつね」に対し「世の常の 人の心を またみねは なにか此たひ けぬへきものを」と答え、全く拒絶している。この贈答は『後撰和歌集』恋四にも収められている。
さらに、色好みで有名な平定文からも思いを寄せられたがこれにもなびかなかった。
このころ宇多帝に召されて皇子を産み、伊勢は皇后となった。古今和歌集目録には「寛平間爲更衣誕皇子」とある。皇子の名は明らかではない。『日本紀略』によれば宇多皇子に無品行中親王がおり、生年が寛平九年となるのでこの皇子を当てる説があるが、この皇子は十三歳で死んだと書かれていて、ただ生年が近いだけの別人だという反論もある。
結局、伊勢と宇多帝の間の皇子に関しては全くわからないようだ。伊勢と宇多帝の愛は深いものであったようだが、宇多帝は昌泰二年十月二十日に太上天皇を辞し、四日後には仁和寺に入った。この事は伊勢を悲しませた。
また、延喜三・四年頃、皇子が八歳(西本願寺本の伊勢日記では五歳)で亡くなり、このことがまた伊勢を悲しませた。その後も藤原温子に宮仕えしていたが、延喜七年六月八日に温子も崩御し、伊勢の悲しみはまた上塗りされることになる。
だがしかしこの頃、宇多帝第四皇子敦慶親王との仲が深まる。敦慶親王は素晴らしい美男子であったらしく、『本朝皇胤紹運録』に「二品式部卿、玉光宮ト号ク」とある。また、『源氏物語』の光源氏の美貌のモデルになったとも考えられているらしい。その『本朝皇胤紹運録』に敦慶親王の子で母が伊勢であると記された女があるので、伊勢はこの皇子との間に子を設けている。その子が平安中期の女性歌人中務であり、伊勢と同じく三十六歌仙に数えられている。その親王は伊勢が59歳、中務が18歳の延長八年(930)二月二十八日に亡くなってしまう。
伊勢の没年には諸説あり、天慶二年、天慶五・六年、および天暦年間とあるようだが、最後の説は信用性に欠ける。天慶五年、敦忠の坂本の山荘で中務とともに歌を詠じたものが最後の事跡とみられ、その後近い内に他界したものと思われている。
死後、伊勢に関する伝承は歌業や歌名を伝えるものが殆どであり、伊勢自身が描かれることは殆どなかった。
参考文献:
和歌文学会『和歌文学講座 第六巻 王朝の歌人』桜楓社、昭和45年『群書類従 第十五輯』續群書類從完成會、昭和9年
『群書類従 第十六輯』續群書類從完成會、昭和9年
秋山虔『王朝の歌人5 伊勢 炎、秘めたり』集英社、1985