挨拶

2009年12月31日木曜日

名言

君、不幸にならなければいけないぜ。うんと不幸に、ね。そして、苦しむのだ。不幸と苦しみが人間の魂のふるさとなのだから
──坂口安吾「風と光と二十の私と」


坂口安吾、最近気に入ってます。

2009年12月30日水曜日

名言

「死ぬ時は、こうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をただまっすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいい。分ったね」
──伊坂:坂口安吾「白痴」
 
 
このセリフは白痴の女と空襲から逃げる際に発せられたもの。格好良い事を言っているが実は、みんなが逃げている道に行くと助かりそうもないので、ほかの道を行くべきだと女に言っているだけである。
普通にそっちに行くと死ぬぞとだけ言えばいいのだが、こんな事を付け足すあたり主人公は常に全力で人生というものに向き合っていると見える。

2009年12月16日水曜日

退廃について

随筆って物が何なのかは知らないが、適当に思ったことを書けば随筆であろうと言うのが正直な感想である。だからと言って、自分も書けると言うわけではないだろうが、今から書くものが日記ではないことを頭の隅にでも留めてほしいと思っただけだ。

退廃と言うのは、辞書的には文化や倫理の衰退という意味のようだ。状況が悪くなることを指す言葉である。だが退廃と言う言葉に、僕は甘美なものを感じる。衰退にはそのようなニュアンスはない。何故退廃は美しさを持つのか。
退廃とは堕落である。堕落は悪だ。清純、不純。高潔、卑俗。その堕落とは何か。倫理の低下だ。倫理とは何か。人の理である。しかし、その人の理は美しさを兼ね備えうるのか?
美しいものに惹かれるのは人の性である。美の女神はアフロディーテであるが、彼女は堕落していると言ってよい。ヘファイストスと言う夫がいながらもアレスと姦通している。また、世界三大美女のヘレナも八歳で男を知ったと言う。
美とは元来、堕落したものと言えよう。倫理なるものが一番人の理を犯していると言える。人が美しいものを愛でるのは本能だが、倫理において八歳のヘレナは見ることすら出来ない存在となる。
月の神セレネは自らの愛人を衰退から守るため、生きたまま永遠の眠りにつかせた。衰退は美しくないのだ。衰退は死へのリビドーである。だが退廃は生へのリビドーと言えよう。
こんな事は僕に限らずあると思うが、町を歩くとき、普通の家を見ても入りたいとは思わない。だが、朽ちかけたような、明日そこに立っている保証も無さそうな廃屋には足を踏み入れたいと思う。両者の違いが生と死ならば、我々は当然生を選ぶべきである。だが、我々は、少なくとも僕は、死を選ぶ。この場合の死は退廃である。先ほど、退廃は生へのリビドーだと言った。だがなぜ、ここでは死が退廃なのだろうか。
他者、それが人であれ物であれ自分でないものが死ぬ事は、逆に自分が生きていることを確認する事でもある。他者の死は自らの生、自らの生はすなわち退廃である。人が生きるのはまさに堕落であって、生きる事は堕落すること、退廃と言える。衰退を嫌うセレネの恋が、退廃であるのは死した美少年を愛するからだ。死した美少年を愛し、毎夜その動かぬ体を愛撫しに訪れる月の女神とは、これを退廃と言わず何と言おうか。そこに倫理はあるか。愛する者の美しさを保つためにこれを殺すのは、果たして倫理においてなされようか。否、これは堕落である。人はいつまでも美しくはいられない。それを悟り、諦観する事が解脱だ。美を求めるは堕落。美を好む人間は堕落。人は本来悪と言える。
この意味において悪は美しいと言えよう。天照大神は宇受女の裸踊りで姿を現したのだ。
美こそ全て、退廃こそが人間であり、芸術である。

2009年12月12日土曜日

名鉄瀬戸線栄町駅

栄町駅のホームへ降りる階段の上に、かなりの面積の白い壁があった。
天井にプロジェクターを取り付ければ、コマーシャルフィルムも流せそうだな、と思った。