挨拶

2010年12月3日金曜日

日本文化学基礎演習:七夕レポート

七夕
  1. 起源
  2. 牽牛と織女の伝説
  3. 願い事の短冊
  4. 七夕の日と七夕まつり

七夕の起源
中国
漢代のころにはすでに七月七日に行事が行われていたが、この時はまだ星祭ではなかったようだ。しかし牽牛と織女の伝説の原型はあった。六世紀に書かれた『荊楚歳時記』に「七月七日は、牽牛織女、聚会の夜なり。是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金銀・鍮石を以って針と為し、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以って巧(=裁縫技術)を乞う。喜子(=蜘蛛)の瓜上に網すること有れば、則ち以て符応と為す」とあり、このころには完全に、七月七日は牽牛と織女の逢瀬の日であると認識されていたようだ。また、ここに「以って巧を乞う」と書かれているように、この日には乞巧奠(きっこうでん)という宮廷行事が行われた。乞巧奠は七月七日の夜に織女星を眺め、祭壇に針などを供えて技芸の上達を祈るものである。


日本
日本においてもともとタナバタという言葉は、盆を迎える準備として、祭壇の棚に標識としてのハタをつけることを言ったようだ。また、棚機女(たなばたつめ)が水辺で神の降臨を待つという民間信仰も存在し(折口信夫の説)、これらが行われる日が七月七日であった。地方により内容に違いはあるが、古来より日本ではこの日に行事を行う風習があった。

奈良時代の宮廷では、七月七日に相撲を観覧したあと、文人が七夕の詩を賦す(「賦七夕詩」)のが慣例とされていた。これの初見は『続日本紀』における天平六年(七三四)で、宮中あげての華やかさだったと推測されている。

中国の影響を受けた七夕行事は、『養老雑令』に節日と定められているので、遅くとも八世紀には、国家的儀式として定着していたようだ。

また、正倉院宝物に「七孔針」という三本の長針と四本の短針がセットになった物がある。これは『大唐六典(だいとうりくてん)』や『荊楚歳時記』に記載がある七孔金細針(七孔針)である。この針全てに糸を通すことで針仕事の上達を祈った物であり、中国の風習をそのまま受け継いでいることが分かる。


牽牛と織女の伝説
働き者の天帝の娘「織女」と同じく働き者の「牽牛」が結婚し、結婚生活の楽しさによって仕事をしなくなる。それに怒った天帝は二人を引き離したが、一年に一度七月七日だけ会う事を許す。その日には天の川にカササギが橋をかける。

という説話は、中国において長い年月をかけて形作られてきた。

牽牛・織女の名が見られるのは周代に作られた『詩経』が最古のようだが、そこではただ星の名として出てくるのみである。

漢代になると、『文選』の「古詩十九首」に「河漢清く且つ淺(あさ)し/相去ること複た幾許ぞ/盈盈(えいえい)たる一水の間/脈脈として語るを得ず」とあり、牽牛と織女が天の川(河漢)をはさんで見つめ合ったまま(脈脈:じっと見つめ合う事)話すことすらできないという内容がうたわれている。この詩では二人は会う事が出来ない。一年に一度会う事が出来る、という設定はこれ以降に付け加えられたものらしい。

魏晋南北朝時代には七月七日に二人が会う事が出来るようになり、七夕の節句と結びついた。

カササギが橋を架けるようになったのは唐代以降のようだ。

また、長い時間をかけて成立したものであるので、上記のストーリーのほかにも数多くのバリエーションが存在している。


願い事の短冊
笹に短冊をつるす風習は日本独自のもので、中国には見られない。

これが始まったのは江戸時代からで、五行説に従った五色(緑・紅・黄・白・黒)の短冊を吊るす。中国では短冊ではなく糸を吊るす。また、他の七夕飾りも江戸時代に成立した。

サトイモの葉の露で墨をすり、それで梶の葉に和歌を書き、供える風習が宮中にあり、それが庶民に広まったものとも言われている。


七夕の日と七夕祭り
七夕は旧暦の七月七日に行われていた行事である。明治6年の改暦後は新暦の七月七日に行う地域と、月遅れの八月七日に行うところに分かれた。また、旧暦の七月七日に行うところもある。

七夕祭りは江戸時代中期には存在していたが、現在では神事と関係のない観光や集客のためのイベントとなっている。これも改暦の影響で、開催日は新暦、月遅れ、旧暦の三種類に分かれている。



参考資料
藤井一二『古代日本の四季ごよみ』中公新書、1997年
橋浦泰雄『月ごとの祭り』岩崎美術社・編、1977年
日本文化いろは辞典http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html
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