挨拶

2011年8月6日土曜日

伊勢

伊勢

伊勢は平安初期の女性歌人で、三十六歌仙のひとりである。伊勢の御、伊勢の御息所とも呼ばれる。情熱的な恋歌で知られ、古今和歌集など勅撰和歌集に176首がとられている。

貞観14年(872)ごろの生まれのようだが、生年は未詳である。以下で伊勢の年齢を出す場合、貞観14年生まれとして計算している。
右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする藤原北家の系統をひく、左大臣冬嗣の兄真夏を祖とする女性で、藤原継蔭の娘。

伊勢集に「いつれの御時にかありけんおほ宮す所(七条后)ときこえける御つほねにやまとにおや(継蔭)有ける人(伊勢)さふらひけり」とあるように、宇多帝の御息所七条后藤原温子に仕えた。伊勢の祖父家宗が中宮職の官人として文徳天皇の后藤原明子に多年に渡って使えていたことで、伊勢を幼い時から温子に仕えさせることが出来たのではないかとの説がある。

父継蔭は古今和歌集目録によれば文章生から大工頭、参河守を歴任し、「仁和元年八月十五日任伊勢守。二年正月七日叙從五位上。寛平三年正月任大和守」とあるように継蔭は仁和元年(885)に伊勢守、寛平三年(891)に大和守に任じられている。

先の引用箇所の記述では継蔭が大和守であるとのこと(「やまとにおや(継蔭)有ける」)であが、続きに「爲伊勢守之比號伊勢歟」とあり、継蔭が伊勢守在任中に女御になったので伊勢という女房名となったようだ。

温子の弟である藤原仲平に恋い慕われ、やがて文を取り交わす仲となる。これは伊勢集に「御息所の御せうと(仲平)年頃いひわたり給けれとしはさらにきかさりけるをいかゞ有ける」などとある。
その後仲平は大臣(西本願寺本の伊勢日記では大将)の婿となり(「時のおほひまうち君にむこにとられにけり」)、悲しみから父の任地大和に逃れたという。伊勢集ではここで最初の和歌があり、伊勢の実家を訪れた仲平が「人すます あれたる宿を きて見れは 今そ紅葉の 錦おりける」という歌に「なみたさへ 時雨にそひて 故郷は 紅葉の色も こさまさりけり」と返している。

大和に滞在中、温子から出仕するようにと勧められ、再び宮仕えに戻った。この間に仲平の兄時平に思いを寄せられた。また、仲平も再び言い寄って来る。これに伊勢は文は返すのみで、会おうともしなかったようだ。おそらく、最初の失恋が響いていたと思われる。
例えば時平の歌「ひたふるに 思なわひそ ふるさるゝ 人の心は それそよのつね」に対し「世の常の 人の心を またみねは なにか此たひ けぬへきものを」と答え、全く拒絶している。この贈答は『後撰和歌集』恋四にも収められている。
さらに、色好みで有名な平定文からも思いを寄せられたがこれにもなびかなかった。

このころ宇多帝に召されて皇子を産み、伊勢は皇后となった。古今和歌集目録には「寛平間爲更衣誕皇子」とある。皇子の名は明らかではない。『日本紀略』によれば宇多皇子に無品行中親王がおり、生年が寛平九年となるのでこの皇子を当てる説があるが、この皇子は十三歳で死んだと書かれていて、ただ生年が近いだけの別人だという反論もある。
結局、伊勢と宇多帝の間の皇子に関しては全くわからないようだ。伊勢と宇多帝の愛は深いものであったようだが、宇多帝は昌泰二年十月二十日に太上天皇を辞し、四日後には仁和寺に入った。この事は伊勢を悲しませた。
また、延喜三・四年頃、皇子が八歳(西本願寺本の伊勢日記では五歳)で亡くなり、このことがまた伊勢を悲しませた。その後も藤原温子に宮仕えしていたが、延喜七年六月八日に温子も崩御し、伊勢の悲しみはまた上塗りされることになる。
だがしかしこの頃、宇多帝第四皇子敦慶親王との仲が深まる。敦慶親王は素晴らしい美男子であったらしく、『本朝皇胤紹運録』に「二品式部卿、玉光宮ト号ク」とある。また、『源氏物語』の光源氏の美貌のモデルになったとも考えられているらしい。その『本朝皇胤紹運録』に敦慶親王の子で母が伊勢であると記された女があるので、伊勢はこの皇子との間に子を設けている。その子が平安中期の女性歌人中務であり、伊勢と同じく三十六歌仙に数えられている。その親王は伊勢が59歳、中務が18歳の延長八年(930)二月二十八日に亡くなってしまう。

伊勢の没年には諸説あり、天慶二年、天慶五・六年、および天暦年間とあるようだが、最後の説は信用性に欠ける。天慶五年、敦忠の坂本の山荘で中務とともに歌を詠じたものが最後の事跡とみられ、その後近い内に他界したものと思われている。
死後、伊勢に関する伝承は歌業や歌名を伝えるものが殆どであり、伊勢自身が描かれることは殆どなかった。

参考文献:

和歌文学会『和歌文学講座 第六巻 王朝の歌人』桜楓社、昭和45年
『群書類従 第十五輯』續群書類從完成會、昭和9年
『群書類従 第十六輯』續群書類從完成會、昭和9年
秋山虔『王朝の歌人5 伊勢 炎、秘めたり』集英社、1985

資料

日野家系図-Wikipedia

2011年5月16日月曜日

5/9 月曜三限 「科学史」

各惑星の回転軸の位置は異なる
└→惑星の「留」や「逆行」を説明(実際には説明出来ていないが、そういう事にしてある)

B.月下界

:不完全な世界⇒生成、消滅、変化が絶えない世界、直線運動
  • 運動:自然運動と強制運動
  • 構成元素:土、水、空気、火の順に地球の中心から層をなして存在

自然運動:各元素が本来の場所に戻ろうとして生じる
強制運動:自然に逆らって行われる運動 <例>石を持ち上げる

運動の原動者
自然運動:運動体自身
強制運動:運動体の外部にあり、運動体と直接接触することによって生じる
<問題点>物体の投射運動をうまく説明できない。
⇒アリストテレスの説明:「真空嫌悪」自然は何も無い空間を嫌うので、これができると周りの空気がそこに入り込む。物体が移動した空白(一瞬前に物体があった場所)が真空になり、その真空に空気が流れこみ、物体を押し上げる。(これはこじつけでしか無い)

四元素説
元素は物体の素材であるmatter(質)と性質であるform(形相けいそう)が与えられて出来ている。
四元素のmatterは全て同じであるので、元素の違いは形相の違いによる。
対立する性質、熱-冷;乾-湿が同時に存在することはないので、可能な組み合わせは、
熱と冷→火熱と湿→空気
冷と乾→土冷と湿→水
四元素は相互に変換できる。
「水」を熱する→「水」の「冷」を「熱」に変える→「熱」と「湿」の空気(水蒸気)になる
⇒金を金でない物質から作ることもできる。(→錬金術の金属変成の理論的基礎)

第3講コペルニクスの天文学

§1コペルニクス以前の天文学

プトレマイオス(2c)の『アルマゲスト(偉大な書)』から
(a)離心円:地球は宇宙の中心から少し離れたところにある。惑星の動きの説明などに使用された理論
(b)周転円と導円:惑星の軌道が、同心円で構成されているが軌道が楕円になるという説明
(c)(a)と(b)の組み合わせ
A~Bまでの時間=B~Cまでの時間
└周転円の中心はエクァントに対して一定の角速度を持つ。つまり移動する距離は等しくないが、エクァントに対しての角度が一定の速度で増える。
└→円運動への固執と「現象を救う」との妥協の産物
※「現象を救う」:当時の言葉で、現実の現象と理論を一致させることを指す。

当時の天文学
宗教の祭祀の日取り決定
プトレマイオスの理論は数学的虚構⇒天体の経路を計算するために役立つ数学的仮説
※宇宙の中心が地球の位置と一致しないことの理由は問わない(プトレマイオスの理論が現実に真理であるとは思っていなかったから)
コペルニクスの言っていることも数学的虚構であるとオジアンダーは言った

2011年5月5日木曜日

4/25 月曜三限「科学史」

<日本における西欧近代科学の受容>

本格的に移植されたのは明治期
移植元の西洋科学が制度化されていたため、比較的抵抗なく受容された。
脱亜入欧←しかし、西洋に対する違和感あった→和魂洋才

制度化の二つの方法

  1. エリートの留学
  2. お雇い外国人教師

代わりに、日本式数学である和算は消えた。だが和算は、単なる数学ではなく、茶道や華道のような「道」に近い。

第2講 アリストテレスの自然観

アリストテレス B.C.4「万学の祖」数多くの学問に通じていた。

1.自然観の特徴

  • 階層的秩序

  • 目的論的世界観
    自然現象を説明するときはその目的を考える。 「~という現象は~するために生じた」




v.s.
機械論

2.自然界の秩序

本性(ほんせい)の異なる2つの世界
A.天上界(月を含めた、それより上の世界)……完全な世界
構成元素:アイテール(エーテル)非常に希薄でおそらく重さはない。
運動:円運動
※円運動の完全性(対比)直線運動
円運動には始点・終点がない(円上の点は全て一様)⇒永続的
直線運動には始点・終点があり、前後・左右・上下の対立がある
↑形而上学的説明
形而上学:metaphysics(meta:~を超えて physics:物理学)超物理学←物理学よりさらに一般化する

地球-恒星天球間の惑星の配置
地球が不動の中心
月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星の順にそれぞれのための天球同心円を描いて配列されている。
透明な天球に各惑星が密着しており、天球の回転に伴って各惑星が回転する。
天球は不動の動者=神が動かしている。
最外殻の恒星天球の外は「無」であり、閉じた有限の世界を想定。

2011年4月21日木曜日

4/18 月曜3限「科学史」

16・17世紀「科学革命」の時代

Scientific Revolution 現代科学の源
↑対比↓
scientific revolutions :パラダイム転換(paradigm: 規範)
自然観の転換:アリストテレス的自然観から機械論的自然観へ

科学団体の形成

1660年 ロンドン Royal Society
アマチュアの団体、会員からの回避で運営。Royalは「王立」というより「国王認可済み」程度の意味
1662年 パリ Academie Royale des Sciences
エリートの団体、政府機関

18世紀 啓蒙主義の時代

科学における脱キリスト教化
合理性や進歩の強調

19世紀 科学の制度化の時代

scientistの登場 ←科学研究を職業とする人々
└→1830年代の造語(William Whewellによる) ※scienceの語源はギリシア語の「スキエンティア(知)」
これ以前はnatural philosopher 自然学者
man of science 科学愛好家(アマチュア)
scientist→高度な知識を持っているが、視野が狭い(Whewellは批判的な態度)
「科学技術」の成立
これ以前、科学と技術は別々の道
科学の担い手:エリート
技術の担い手:職人
・1830年代以降 有機化学の成立→合成染料の発明

20世紀「ビッグ・サイエンス」の時代

(まだ終わって10年しか経っていないので、この時代をどう定義するかの合意はまだ無い)
国家による科学政策
科学技術への批判が台頭
日本における西欧近代科学の受容
本格的に移植されたのは明治期

2011年4月14日木曜日

木曜2限 日本倫理思想史

※板書じゃないので要点をメモしただけのものです。一部はレジュメより。

系譜学と歴史の表象

 1 系譜学への視座


歴史学←因果律

対抗

系譜学←時間は断絶している

キャッチコピー「乱反射する時間

3.11、歴史の中心は突如切り替わった

3.11まで、日本が全体で可哀想だと思っていたのは宮城県だった。宮城県が好転したわけでもないのに、突如歴史の中心は東北に移ったのである。中心が宮城から東北に移ったことは必然ではなく、因果もない。→歴史は連続していない

前近代「循環する時間」自分から子孫、この世からあの世、の連続。
近代「時間は一過性の物」人間は、あの世を否定することで近代を手に入れた。死んだら終わり。(あの世がない近代の人間は、この世で頑張るしか無い。だから、近代人は頑張れなくなったとき病気になる)

右派も左派も、歴史の連続性の上に成り立っているという点で同じである。歴史は連続していないという新しい立場が必要。

過去が持つ他者性を、近代的な言葉で飼い慣らすことが歴史を語るということ。歴史は歴史のまま語れない。歴史を語る側の人間の言葉で語られるのである。

関ヶ原の戦いについて、我々は何を知っていれば「知っている」と言う事になるのか?
起きたとき?
起きた場所?
参加した、死亡した人数?
家康や三成の思い?

南京の虐殺

中国は死亡者を30万人という。
日本は多めに見積もっても20万人だという。(中国の主張:日本は加害者なのになぜ被害者の主張を受け入れず被害者の数をねぎるのか)
だが、30万人だからどうなのか。
その30万人のうちのひとりの無念でも理解できるのか
どれだけの遺族の悲しみを知っているのか
30万人が正しいとしても、正しい被害者の数を把握することが南京の虐殺についてちゃんと「知っている」事になるのか

我々の想像を超える数字を語るとき、思考が止まる。

今、原子力発電所の見直しが声高に語られている。
だが、原子力発電所は原子力の平和利用である。なぜ原子炉を批判する前に、最初から人を殺す為に原子力を利用している原子爆弾を批判しないのか?
なぜ原子爆弾や水素爆弾の大気圏内実験をしていた国が放射線汚染で騒いでいるのか。

系譜学

今語られている歴史は物語でしかないのではないか?
本来歴史は繋がっていない。繋がっていないことを無理やりつなげようとすると、歴史は歴史家の語る物語でしかなくなる。

歴史は必然で出来ていない

歴史には偶然がある。強者が常に勝ち続けたわけでないことがその証明となるのではないか。

2011年4月12日火曜日

月曜三限「科学史」

第1講 近代科学の流れ-その概観

12世紀

12世紀ルネサンス

イスラム世界に受け継がれたギリシア・ローマの学術書(主としてアラビア語)のラテン語への大翻訳運動
※古代ギリシア・ローマの科学技術はそのままの形でヨーロッパへ継承されたのではなく、イスラム帝国を経て、アラビア世界へ。
キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)によるイベリア半島の奪回と、それに伴うアラビア誤訳された大量のギリシア・ローマ文献の発見
翻訳例:アリストテレス、アルキメデス、ユークリッド、ヒポクラテス、ガレノス

13世紀

キリスト教とアリストテレス学融合(→スコラ学の成立)
キリスト教:神による世界創造
アリストテレス:「世界の永遠性」-世界には始め終わりもない
※アリストテレスの学問は異教徒の学問

14・15世紀

イタリア・ルネサンス

各地に散在するギリシア・ローマ文献の収集と言語からのラテン語訳12世紀ルネサンスでよみがえらなかった異端的、神秘主義的、魔術的思想の復活
例)ルクレティウスやエピクロスの原子論、ヘルメス文書、プラトンの思想

2011年3月22日火曜日

ゆっくり悩みな

ゆっくり悩みな。悩みなんてのは大抵、一日で解決するもんだよ。残り三百六十四日は休めばいい
田村さん(入間人間『電波女と青春男 2』)

2011年2月1日火曜日

日本文化史試験「中世文化史の歴史的特質」

中世文化史の歴史的特質

病草紙に見える中世人間像

授業内でもっとも印象に強く残ったのが餓鬼草紙だった。排便という日常的行為のそばに化け物がいるという絵そのもののインパクトもあったし、人間なら誰しも行う排便という行為が平安時代にどう行われていたのかという面でも興味を持った。もっとも身近に感じられる主題だったともいえる。授業内でも少し言及があったが、餓鬼草紙には近い作品として『地獄草紙』『病草紙』がある。今回僕は病草紙を主題に、餓鬼草紙との関係や、中世の人間像を探ってみたいと思う。

病草紙とは、平安時代末期から鎌倉時代初期ごろに描かれた絵巻物である。絵、詞書とも作者は未詳である。後白河法皇の命によって作成されたという説もあるようだ。さまざまな奇病を集めたものであり、現在は九図が国有となり、ほかにも各地に分蔵されているものもある。人物表現などが餓鬼草紙や地獄草紙と通じ、近い環境で書かれたものとされている。六道絵の一種として、生老病死の四苦の内、病の苦しみを取り上げたものとする説もある。しかし、内容を見る限り、仏教の教えが絡んでいる気配は僕には感じられなかった。病にまつわる説話的興味から作られたものだと考える説を支持したい。

最初に、『餓鬼草紙』と共通で見られる文化を取り上げる。

まず、全体の画風は写実的で人々の暮らしを率直に表しており、写実的な鎌倉文化に近いものである。

排便時には高下駄を履いていたということが、餓鬼草紙と共通である。病草紙の「しりの穴がたくさんある男」を描いた部分では、排泄をしている男が高下駄をはいており、餓鬼草紙の伺便餓鬼に描かれた人々と同じである。また、「霍乱の女」では、女の排泄物を餌としている犬が描かれている。伺便餓鬼の発想も、こういう所から生まれたのかもしれない。

次に、『病草紙』から見られる中世の人々の暮らしを取り上げる。

都に女がいて、美しかったので雑仕として使われていたが、女の息があまりにも臭く、寄ってきた男は逃げてしまう。ただ座っているだけでも、近くにいる人は臭さに耐え切れない。という話が載っている。描かれた口臭のひどい女は楊枝を使って歯を磨いているようである。歯磨きは仏教伝来とともに中国から伝わった習慣だそうで、平安時代から鎌倉時代にはすでに民間で楊枝が使われていたそうだ。この絵からは、中世における歯磨きの様子が分かりとても面白い。

目が見えなくなってきた男の話がある。どうやら白内障を患っているらしいこの男は、ちょうどやってきた医者に治療を頼むが、この医者の鍼治療のせいで男は失明してしまった、という話だが、平安時代にはすでに白内障の手術法があったそうで(『医心方』)、この絵はそんな治療風景を描いたものとして見れる。もっとも、この医者の手術は失敗しており、多量の血がながれている描写になっている。

さらに、中世における差別などの問題を読むこともできる。この絵巻物の絵や詞書には、病人に対して同情までは行かないにしてもある程度の憐憫を持って書かれているものもあれば、嘲笑の対象として書かれているものもある。もっとも顕著なのが「二形」を描いたもので、ここに描かれている半陰陽の人物に対しては嘲笑があり、差別があることが明確に示されている。また、半陰陽の形態も実際とは離れ、誇張されて描かれている。このことは身体的変形からくる差別の存在を表しているが、どのあたりから病人ではなく異常者として扱われていたのかまでは、病草紙では判然としない。

2010年12月3日金曜日

日本文化学基礎演習:七夕レポート

七夕
  1. 起源
  2. 牽牛と織女の伝説
  3. 願い事の短冊
  4. 七夕の日と七夕まつり

七夕の起源
中国
漢代のころにはすでに七月七日に行事が行われていたが、この時はまだ星祭ではなかったようだ。しかし牽牛と織女の伝説の原型はあった。六世紀に書かれた『荊楚歳時記』に「七月七日は、牽牛織女、聚会の夜なり。是の夕、人家の婦女、綵縷を結び、七孔の針を穿ち、或いは金銀・鍮石を以って針と為し、几筵・酒脯・瓜果を庭中に陳ね、以って巧(=裁縫技術)を乞う。喜子(=蜘蛛)の瓜上に網すること有れば、則ち以て符応と為す」とあり、このころには完全に、七月七日は牽牛と織女の逢瀬の日であると認識されていたようだ。また、ここに「以って巧を乞う」と書かれているように、この日には乞巧奠(きっこうでん)という宮廷行事が行われた。乞巧奠は七月七日の夜に織女星を眺め、祭壇に針などを供えて技芸の上達を祈るものである。


日本
日本においてもともとタナバタという言葉は、盆を迎える準備として、祭壇の棚に標識としてのハタをつけることを言ったようだ。また、棚機女(たなばたつめ)が水辺で神の降臨を待つという民間信仰も存在し(折口信夫の説)、これらが行われる日が七月七日であった。地方により内容に違いはあるが、古来より日本ではこの日に行事を行う風習があった。

奈良時代の宮廷では、七月七日に相撲を観覧したあと、文人が七夕の詩を賦す(「賦七夕詩」)のが慣例とされていた。これの初見は『続日本紀』における天平六年(七三四)で、宮中あげての華やかさだったと推測されている。

中国の影響を受けた七夕行事は、『養老雑令』に節日と定められているので、遅くとも八世紀には、国家的儀式として定着していたようだ。

また、正倉院宝物に「七孔針」という三本の長針と四本の短針がセットになった物がある。これは『大唐六典(だいとうりくてん)』や『荊楚歳時記』に記載がある七孔金細針(七孔針)である。この針全てに糸を通すことで針仕事の上達を祈った物であり、中国の風習をそのまま受け継いでいることが分かる。


牽牛と織女の伝説
働き者の天帝の娘「織女」と同じく働き者の「牽牛」が結婚し、結婚生活の楽しさによって仕事をしなくなる。それに怒った天帝は二人を引き離したが、一年に一度七月七日だけ会う事を許す。その日には天の川にカササギが橋をかける。

という説話は、中国において長い年月をかけて形作られてきた。

牽牛・織女の名が見られるのは周代に作られた『詩経』が最古のようだが、そこではただ星の名として出てくるのみである。

漢代になると、『文選』の「古詩十九首」に「河漢清く且つ淺(あさ)し/相去ること複た幾許ぞ/盈盈(えいえい)たる一水の間/脈脈として語るを得ず」とあり、牽牛と織女が天の川(河漢)をはさんで見つめ合ったまま(脈脈:じっと見つめ合う事)話すことすらできないという内容がうたわれている。この詩では二人は会う事が出来ない。一年に一度会う事が出来る、という設定はこれ以降に付け加えられたものらしい。

魏晋南北朝時代には七月七日に二人が会う事が出来るようになり、七夕の節句と結びついた。

カササギが橋を架けるようになったのは唐代以降のようだ。

また、長い時間をかけて成立したものであるので、上記のストーリーのほかにも数多くのバリエーションが存在している。


願い事の短冊
笹に短冊をつるす風習は日本独自のもので、中国には見られない。

これが始まったのは江戸時代からで、五行説に従った五色(緑・紅・黄・白・黒)の短冊を吊るす。中国では短冊ではなく糸を吊るす。また、他の七夕飾りも江戸時代に成立した。

サトイモの葉の露で墨をすり、それで梶の葉に和歌を書き、供える風習が宮中にあり、それが庶民に広まったものとも言われている。


七夕の日と七夕祭り
七夕は旧暦の七月七日に行われていた行事である。明治6年の改暦後は新暦の七月七日に行う地域と、月遅れの八月七日に行うところに分かれた。また、旧暦の七月七日に行うところもある。

七夕祭りは江戸時代中期には存在していたが、現在では神事と関係のない観光や集客のためのイベントとなっている。これも改暦の影響で、開催日は新暦、月遅れ、旧暦の三種類に分かれている。



参考資料
藤井一二『古代日本の四季ごよみ』中公新書、1997年
橋浦泰雄『月ごとの祭り』岩崎美術社・編、1977年
日本文化いろは辞典http://iroha-japan.net/iroha/A03_goseku/04_tanabata.html

2010年8月24日火曜日

お前にとっての真実は

お前にとっての真実は、お前にしか価値がない。
だがしかし、それがお前にとっての真実であることは揺るがない。
水平線まで何マイル? :教官
教官かっこいいよ教官
自分の夢は、自分にしか価値がわからないかもしれない。でも、自分が本気で追いかけられるならば追い続けろ。教官かっこいい