挨拶

2010年7月20日火曜日

アイデンティティについて

毎年村上龍の「愛と幻想のファシズム」を読んでいる。
なぜ毎年読むのかと考えたところ、アイデンティティの確認の為ではないかという考えが浮上した。
アイデンティティの確認。吐き気がする言葉だと思った。凄まじい違和感があった。
まず、僕はアイデンティティを信用しない。アイデンティティは、自我同一性と訳される。自我の同一性を確固としたものとして認識する事をアイデンティティの確立と呼ぶ。
しかし、僕は自我を常に同一のものであるとは考えない。自我は常に変化する。一時たりとも同一の自我というものを持ち得ることはない。一瞬前の自分であっても、違うのだ。年が離れていた方が分かりやすいだろうが。例えば五年前の自分と会うことができ、議論することがあったならば、果たして同意は得られるだろうか。五年前の自分は別人のような思考形態をしているはずだ。
自我に同一性は存在しない。
では、愛と幻想のファシズムを毎年読むことの意味は何だろうか。
自我が常に変化するものならば、つまりそれは「自我の変化の確認」ではないかと思う。毎年同じ本を読むことで、一年分の自我の変化を感じるのだ。
もしかしたら自我の変化の確認作業は、「アイデンティティの確立」に役立つかもしれない。

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